その日は雪が降っていた。
雪はしんしんと降り続き、少女の小さな体に降り積もる。
少女は冷たい手を暖めたくて、はあっと息を吐いた。全身氷のように冷たくてもう動く気にもなれず、少女はその場にしゃがみ込んだ。
なんだか眠くなってきて、そのまま寝てしまおうかとゆっくりと|瞼《まぶた》を閉じていく。
「大丈夫?」
ふと声がする。とても穏やかで優しい声。
そっと瞼を開くと、少年がこちらを見ていた。「こんなとこで寝ちゃ駄目だよ、お家はどこ?」
少年の澄んだ瞳とその可愛らしい容姿から、天使が舞い降りてきたのかと思ってしまった。
「私に家はないの、帰るところなんてない」
少女の瞳は|虚《うつ》ろだった。
生気はなく、すべてを諦めてしまったかのような瞳をしている。少年は少女に優しく微笑みかける。
「だったら、僕の家においで」
「え?」突然の提案に少女は驚いて瞳を大きく開くと少年を見つめた。
「僕の家、広いから。君一人くらい来ても大丈夫。ね、いいでしょ?」
少年は少女にそっと手を差し出した。
その眼差し、声、仕草、すべてが温かく優しかった。
少女は生まれてはじめて、すがりたいと思った。
孤独に一人で闘い続け、疲れ切った少女の心に、その瞬間温かい何かが芽生えた。少女がたどたどしく手を取ると、少年はその手を優しく握り返した。
°˖✧✧˖°°˖✧✧˖°°˖✧✧˖°°˖✧✧˖°°˖✧✧˖° 月日は流れ―― あの日の少女、さくらはメイドとして忙しい日々を送っていた。忙しなくメイドたちが行き交う中、さくらに次々と指令が飛んでくる。
「それ、取って」
「はい」 「次、これね」 「はい」 「それが終わったら、こっち手伝って」次々、先輩メイドたちから与えられる命令を従順にこなしていく。
ここは、|黒崎《くろさき》家の厨房。
さくらは黒崎家のメイドとして働いていた。さくらを拾ったあの少年は、有名な財閥家の息子だった。
黒崎家は資産家で有名な財閥一族だ。あらゆる経済に精通しており、いくつもの産業は彼らの業績なしには回らない。多くの企業や会社が黒崎家と繋がりをもっている。 長い歴史を持つ由緒ある一族だ。さくらはそんなすごい一族の屋敷で、メイドとして働かせてもらっていた。
今は朝食の準備にメイドたちが駆り出され、さくらもそれに従事していた。
普段から調理は料理長やコックたちが担当し、準備や後片付け、盛り付けや配膳などはすべてメイドが担当している。 朝食、昼食、夕食の前は大忙しだ。 他のメイドたちも料理長の指示に従い、迅速に自分の仕事をこなしていく。「さくら、邪魔よ」
「すみません」 「ほんと、あんたはとろいんだから」メイド長からまたお叱りを受けるさくら。
その様子を見ていた他のメイドたちがクスクスと笑っている。さくらはメイドの中でもあまり出来のいい方ではなく、いつも怒られることが多かった。
そんなに器用でなく、どこか控えめなさくらは上手く立ち振る舞えない。真面目にコツコツこなしていくしかない。 そんなさくらを馬鹿にしたり見下す者も多く、厳しい環境の中、頑張っていた。どんなに苦しくても、挫けずに頑張っていられる理由、それは――
「さくら、おはよう、今日も大変そうだね」
厨房を覗いたのは、黒崎家の次男の|聖《ひじり》。さくらを拾ったあの少年だった。
爽やかな笑顔をさくらに向ける。
聖が顔を出した途端、メイドたちが色めき立った。「聖様だわっ」
「いつも素敵―っ」 「見てるだけで癒されるわ」彼はメイドたちからすこぶる人気が高かった。
決して偉ぶることなく、誰でも分け隔てなく接してくれる優しい人柄。
可愛らしい顔立ちをした爽やかな笑顔。モデル並みの長い手足に相応しいスタイルの持ち主。 どこか儚げな印象も彼の魅力らしく、女性たちの人気を上げる要因だった。 そして、黒崎家の次男……。人柄、容姿、家柄、すべて揃ったパーフェクトボーイ。それは女性たちも放っておかないのも頷ける。
しかし、それらはさくらにとってどうでもいいことだった。
ただ、聖に救われた。それだけが真実。聖がどんな身分だって、どんな容姿だって構わなかった。
さくらにとって聖は世界で一番大切な存在で、彼がいない世界などなんの意味ももたない。「聖様、おはようございます。もうすぐ朝食のご用意ができますので、食堂でお待ちください」
さくらはいつも通り、メイドとして聖に接する。
聖は少し寂しそうな表情をしたあと、複雑そうに微笑んだ。
「うん、ありがとう。それじゃあ、あとで」
本当はさくらともっと話したいのだが、他のメイドたちの手前、聖は引くことにした。
さくらは今仕事中だ、邪魔をしてはいけない。後ろ髪を引かれる思いで聖は厨房をあとにする。
聖が姿を消すと、メイドたちが一斉にさくらを睨み、みんなでひそひそと内緒話をはじめる。
聖が特別扱いしているのが気に食わないらしく、さくらはメイドたちから酷いいじめを受けていた。
悪口、陰口、嫌がらせ、仲間外れ。
どれも、最初は辛かった。しかし、さくらは耐えられた。 聖の傍にいられるだけで幸せだったから、あとのことは大抵我慢できた。「はいはい、もうすぐお食事の時間ですよ」
執事の|旭《あさひ》が手を叩いてメイドたちを急かす。
さくらに目くじら立てていたメイドたちがそそくさと仕事へ戻っていく。
ふと、さくらが旭の方へ目を向けると目が合った。
旭が優しく微笑んだので、驚いたさくらはすぐに視線を外し仕事へと戻る。あの目で見つめられると、すべてを見透かされているようで、なんだか恥ずかしくて、居心地が悪い。
彼は黒崎家の執事で、さくらがここへ来る前からこの家に仕えていた。
黒崎家のことを全て把握しており、彼よりこの家のことを知っている人物はいないだろうと思われる。
彼の仕事はいつも完璧だった。 家のこと、仕事のこと、趣味嗜好など、黒崎家のデータはすべて彼の頭に入っている。旭は黒崎家の完璧な執事だった。
そして、彼もまたメイドたちから人気があった。
執事としての仕事は完璧、周囲のサポートもそつなくこなす。メイドたちへの配慮もかかさない。
さらに、彼もまた一般でいう魅力的な男性の部類に入る|風貌《ふうぼう》をしていた。 そんな彼に好意をもつメイドが多いのも必然。彼はなぜかさくらが困っていると現れ、いつも助けてくれる……ような気がした。
きっとドジばかりのさくらが、旭は気になって心配になるのだろう。
彼はさくらと違い、すべてをそつなくこなす完璧な人だから。しかし、そのせいでまたメイドたちからの圧力が増えていることをさくらは実感しており、ほとほと困り果てているのだった。
毎朝、黒崎家の面々が出勤していく時間。 玄関の前に黒塗りの高級車が二台待機していた。 まず最初に誠一が車に乗り込み出ていくのを、執事の旭とメイドたち数人がお見送りする。 次に智彦が出ていくのを同じように見送る。 その後、聖が徒歩で出かけていくので、その姿が見えなくなるまで皆で見送った。 聖が学校へ徒歩で行くことを、智彦は気に食わないようで、いい顔をしなかった。 始めは注意したが、聖は歩いていくことに彼なりの考えがあるようで譲らない。 そのうち智彦も聖の頑固さに折れ、容認するようになった。「いってらっしゃいませ」 いつものように三人を送り出したさくらは、急いで制服に着替え、屋敷を出た。 さくらはメイドの仕事をしながら、学校へは普通に通っていた。 それは聖のはからいのおかげだった。 住み込みでメイドの仕事を与えてもらっただけでもありがたいことなのに、聖はさくらが学校へ通うことができるように智彦に頼み込んだ。 智彦もメイドにそこまですることをよく思わなかったが、聖の熱心さに打たれ了承した。 晴れてさくらは学校へ通えることになったのだった。 さくらは現在十六歳、高校一年生だ。 聖は同じ高校で、一学年上の先輩だった。 彼は頭もよく、都内で有名な進学校へ通っていた。 さくらは聖と同じ高校へ行きたくて、勉強を必死で頑張った。 なんとか同じ高校に受かったさくらを自分のことのように喜んだ聖は、智彦にさくらを同じ高校に行かせてほしいと頼み込む。 智彦にとって聖は目に入れても痛くないほど愛しい存在だった。 そんな聖からの頼みを無下には出来ず、さくらは無事、聖と同じ高校へ行くことを許された。 聖は先に家を出ているので、追いつくにはそうとう急がなければならない。 さくらは出来る限り急ぎつつ走った。 遠くに聖の姿が見えると、さくらはスピードを緩めていった。 五、六メートル程の距離を保ち、聖の後についていく。 遠くから聖のことを見守る、これがさくらの日課だった。 本当は一緒に並んで歩きたい。 それは途方もない夢であり、憧れだった。 しかし、そんなこと現実には到底叶わない、|一《いち》使用人が主の横に並ぶなんて……。 こうして見守ることができている、それだけで幸せなことなのだ。 そのとき、さくらの脳裏に映
さくらは食事を載せたカートを押していく。 長い廊下をゆっくりと進んでいき、食堂へと辿り着く。そこにはもう既に黒崎家一同が顔を揃えていた。 三人ともいつもの席へ座り、会話を楽しんでいるところだった。 さくらは会話の邪魔にならないように静かに食事を配っていく。 この屋敷の主である|智彦《ともひこ》、世界に名を|轟《とどろ》かすほどの財力と権力を持っている。世界の経済を支える財閥のトップ。 少しふくよかで丸い体とチョビ髭が、|強面《こわもて》とはギャップを感じさせ可愛さを演出している。 智彦の向いに座っているのが長男の|誠一《せいいち》。 彼は、頭脳明晰で戦略家。冷徹非道なところがあるが会社の業績を上げることに成功し、実力が認められ今は社長を任されている。 ルックスがいいこともあり、どこか冷たいその性格もクールだと好評で、雑誌などにイケメン社長などと取り上げられ女子人気は高かった。本人も会社のイメージアップに繋がると、ほくそ笑んでいるようだ。 そして、智彦の隣に座っているのが、次男の聖。 富や名声、権力などにはまったく興味のない、温和で優しい人。お人好し過ぎるのが少し心配ではあるが、そこもまた彼の魅力だ。 彼もまた可愛らしい風貌で幅広い層から人気があった。さらに、その性格の良さから、男女問わず人気は高かった。 聖はさくらの恩人であり、命より大切な人。「おい、使用人!」 誠一の|一喝《いっかつ》でさくらは我に返り、急いで振り返った。「はい!」 誠一が冷めた目つきでさくらを睨んでいる。「落ちた、拾え」 誠一が顎で指し示した先には、ナプキンが落ちている。 さくらは下に落ちたナプキンを急いで拾うと、新しいナプキンを誠一に渡す。 乱暴にさくらからナプキンを奪った誠一が、手で下がれと合図する。 しかしなかなかさくらが動かないので、不審に思った誠一がさくらを訝しげに見た。「おい、おまえ、何をしている。下がれと言ったんだ」 普段なら大人しいさくらが、こんな不機嫌そうな誠一に意見するなどありえないのだが、その日は違った。「あの……グラスをお取替えいたします」 「なぜだ?」 「グラスに汚れが」 そう言われた誠一がグラスをよく見ると、薄く指紋の跡が見えた。「ほう……おまえよく気が付いたな。 こんな
その日は雪が降っていた。 雪はしんしんと降り続き、少女の小さな体に降り積もる。 少女は冷たい手を暖めたくて、はあっと息を吐いた。 全身氷のように冷たくてもう動く気にもなれず、少女はその場にしゃがみ込んだ。 なんだか眠くなってきて、そのまま寝てしまおうかとゆっくりと|瞼《まぶた》を閉じていく。「大丈夫?」 ふと声がする。とても穏やかで優しい声。 そっと瞼を開くと、少年がこちらを見ていた。「こんなとこで寝ちゃ駄目だよ、お家はどこ?」 少年の澄んだ瞳とその可愛らしい容姿から、天使が舞い降りてきたのかと思ってしまった。「私に家はないの、帰るところなんてない」 少女の瞳は|虚《うつ》ろだった。 生気はなく、すべてを諦めてしまったかのような瞳をしている。 少年は少女に優しく微笑みかける。「だったら、僕の家においで」 「え?」 突然の提案に少女は驚いて瞳を大きく開くと少年を見つめた。「僕の家、広いから。君一人くらい来ても大丈夫。ね、いいでしょ?」 少年は少女にそっと手を差し出した。 その眼差し、声、仕草、すべてが温かく優しかった。 少女は生まれてはじめて、すがりたいと思った。 孤独に一人で闘い続け、疲れ切った少女の心に、その瞬間温かい何かが芽生えた。 少女がたどたどしく手を取ると、少年はその手を優しく握り返した。 °˖✧✧˖°°˖✧✧˖°°˖✧✧˖°°˖✧✧˖°°˖✧✧˖° 月日は流れ―― あの日の少女、さくらはメイドとして忙しい日々を送っていた。 忙しなくメイドたちが行き交う中、さくらに次々と指令が飛んでくる。「それ、取って」 「はい」 「次、これね」 「はい」 「それが終わったら、こっち手伝って」 次々、先輩メイドたちから与えられる命令を従順にこなしていく。 ここは、|黒崎《くろさき》家の厨房。 さくらは黒崎家のメイドとして働いていた。 さくらを拾ったあの少年は、有名な財閥家の息子だった。 黒崎家は資産家で有名な財閥一族だ。あらゆる経済に精通しており、いくつもの産業は彼らの業績なしには回らない。多くの企業や会社が黒崎家と繋がりをもっている。 長い歴史を持つ由緒ある一族だ。 さくらはそんなすごい一族の屋敷で、メイドとして働かせてもらっていた。 今は朝食の準備にメイドたちが駆り出さ